越中島キャンパス
 江戸時代初期に榊原越中守が島状の土地に屋敷を持っていたところから「越中島」と名付けられ、その後忍藩松平下総守の領地となりました。黒船来航後、海防のためその屋敷の東隣に設けられた「越中島調練場」、引き続く明治期の「陸軍練兵場」が、明治32年11月「商船学校」の敷地となり、永代橋畔の霊岸島校舎から明治35年1月10日に移転完了しました。そして、その後静岡・清水に「商船大学」が開学しましたが再び越中島に移転し、前身校である「東京商船大学」へと発展しました。

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重要文化財明治丸

 明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に灯台巡廻船として発注し、明治7年(1874年)に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)である。
 この船は特別室やサロンを備え一等飛脚船同様の豪華な仕様の新鋭船で、単に灯台業務ばかりでなくロイヤルシップの役目も兼ねた船であった。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代史の重要な場面で活躍した。
 なかでも明治9年(1876年)、明治天皇は奥羽・北海道巡幸の帰途青森から函館経由横浜まで乗船され7月20日に横浜に安着された。この日を記念して昭和16年(1941年)に「海の記念日」が制定され、平成8年(1996年)に国民の祝日「海の日」(現在は7月第3月曜日)となった。また、明治8年(1875年)、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、同島に赴き小笠原諸島領有の基礎を固める役割を果たした。この領有は現在のわが国の排他的経済水域の3分の1に当たる約150万k㎡を確保する基となり、海洋立国日本の礎ともなった。
 明治丸は明治29年(1896年)に本学の前身である商船学校に譲渡され、係留練習船として昭和20年(1945年)まで5000余人の海の若人を育てた。また大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲では被災した多くの住民を収容し災害救援にも貢献した。
 昭和53年(1978年)わが国に現存する唯一の鉄船であり鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として国の重要文化財に指定された。
[重要文化財(昭和53年5月31日:建第2062号)]

一号館

 関東大震災後、昭和5年(1930年)12月起工し、昭和7年(1932年)11月に東京高等商船学校本館(事務室および教室)として竣工した。設計は文部省建築課と大蔵省営繕管財局による。 建物の屋上階には実船を模した船橋が設けられ、各種航海機器類が配置されていた。屋上、室外の中央に自差修正船(デビエスコープ)、その北側に測深儀が設置されていた。
 測深実習が行えるように雨樋に似た筒が建物の外壁に沿って作られ、現在も残っている。
 3階屋上には気象機械室、方向探知器室が設けられた。
 3階には運用造船模型室、無線教室、無線実験室、時辰儀六分儀室、水路図誌室が設けられた。
 2階には航海計器室があり、最新式のジャイロコンパス、音響測深儀等が配置された。また、航海科階段教室は視聴覚教室用に利用された。
 平成9年(1997年)12月12日、国の有形文化財に登録された。
[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0003号)]

越中島会館

 越中島会館は旧水産講習所の建物で、昭和7年(1932年)から工事を始め、昭和8年(1933年)5月に水産講習所本館として竣工。鉄筋コンクリートの耐火耐震建築であった。
 昭和20年(1945年)に米軍が接収。
 昭和25年(1950年)11月、警察予備隊(現 自衛隊)が使用。
 昭和35年(1960年)年5月旧水産講習所地区が防衛庁から東京商船大学に所管替えとなった。その際、旧水産講習所本館を東京商船大学2号館とした。
 平成7年(1995年)2月、東京商船大学新2号館竣工にともない、越中島会館と名称変更した。
 平成7年(1995年)~平成8年(1996年) 越中島会館の大改装を行った。水産・商船教育界の記念碑施設としてのファサード部分を越中島通りに際立たせた。
 平成9年(1997年)12月12日、国の有形文化財に登録された。
[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0004号)]

先端科学技術研究センター

 昭和7年(1932年)7月、1号館とほぼ同時期に鉄筋コンクリート建の東京高等商船学校図書館として竣工した。
 1階生徒閲覧室には室の周囲に造付開放書架を設備し、自由に閲覧させた。
 2階生徒閲覧室は必要に応じて講演室として使用する事も出来た。
 2階教官閲覧室には各種の専門雑誌を備え、更に教官閲覧室から書庫に自由に出入り出来た。
 小さく区切られた教官研究室が3室あり、その各々を1人ないし数人で使用することが出来た。図書館の建坪は124坪、延坪254坪で図書収容能力は約8万冊だった。
 昭和20年(1945年)に米軍が接収。
 昭和25年(1950年)11月、警察予備隊が使用。
 昭和31年(1956年)越中島校舎地区が防衛庁から返還される。再び図書館として使用。
 昭和43年(1968年)新図書館竣工にともない、大学事務局として使用するため改装された。
 平成15年(2003年)東京商船大学と東京水産大学は統合し東京海洋大学となった。それに伴い事務局は越中島事務室として1号館に移り、現在は先端科学技術研究センターとして使用されている。
 平成9年(1997年)12月12日、国の有形文化財に登録された。
[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0005号)]

第一観測台

 明治36年(1903年)6月竣工。第一観測台・第二観測台は現存する日本最古の天文台と推定されている。商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。航海用天体暦及び航海天文学教授用として使用された。
 内部には当時東洋一と言われた最新鋭赤道儀望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分同銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていた。
 昭和の初期まで時折授業にも使用された。昭和10年(1935年)以降は学生の同好会「天文部」部員により天体の観測に利用されていた。
 昭和20年(1945年)終戦直後、米軍に接収された。現在、第一観測台の内部には望遠鏡の架台がある。
 平成9年(1997年)12月12日、国の有形文化財に登録された。
 第一観測台[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0006号)]
 第二観測台[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0007号)]

第二観測台

 明治36年(1903年)6月竣工。第一観測台と同様に現存する日本最古の天文台と推定されている。商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。
 内部は子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して精確な経度の測定及びその時の天体の高度から緯度の測定等ができた。
 昭和の初期まで時折授業にも使用された。昭和10年(1935年)以降は学生の同好会「天文部」部員により天体の観測に利用されていた。
 昭和20年(1945年)終戦直後、米軍に接収された。
 平成9年(1997年)12月12日、国の有形文化財に登録された。
 第一観測台[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0006号)]
 第二観測台[登録有形文化財(登録:平成9年12月12日、登録番号:第13-0007号)]

G.E.O.ラムゼー巧徳碑

 この碑は、G.E.O.ラムゼ船長の優れた人格に対する尊厳と称賛を永く記憶するために明治19年(1886年)3月の彼の没後1周年にあたり門弟達が建てた。初めは上野美術学校、現在の東京芸術大学の辺りにあったものを、大正の初め頃に現在地に移した。ラムゼー船長は、1839年イギリスのロンドンに生まれ、若くして航海学を学び、明治8年(1875年)に一等航海士として初めて日本に来た。明治9年(1876年) 6月1日に三菱商船学校(本学部の前身)の運用学教員として教壇に立ち、学生に航海術を教えた最初の先生で、明治15年(1882年)4月に三菱商船学校が、官位に移行されることに伴い、惜しまれつつ学校を去ることになった。そして、航海術の啓発や海運事業に多大の功績を残し、明治18年(1885年)3月に他界した。なお、この碑は平成5年(1993年)に江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。
[有形文化財(登録:平成5年3月29日、告示番号:5-4)]

招魂碑

 東京商船学校生であった田副重右衛門は、英国船に乗船して米国に渡る途中暴風雨に遭遇して死亡した。この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建てられ、題字は逓信大臣榎本武揚の篆書である。平成5年(1993年)江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。
[有形文化財(登録:平成5年3月29日、告示番号:5-4)]

精神不滅碑

 太平洋戦争中の昭和19年(1944年)7月と8月、清水高等商船学校学生3名は不屈の精神を持って遠泳訓練に挑んだが、数日来の豪雨の影響もあり、最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡した。
 この碑はその敢闘精神を記すため、昭和19年(1944年)11月に清水で建てられ、越中島に移された。

菅船長記念像

 菅源三郎船長(かん げんざぶろう)は、明治16年(1883年)2月24日に愛媛県越智郡菊間町に生まれた。商船学校を明治41年(1908年)に卒業し、第二次世界大戦勃発時には長崎丸の船長として揚子江河口にてアメリカの客船プレジデントハリソンを発見し、これを追跡してかく座(船を浅瀬に上げること)させた。しかし、昭和17年(1942年)5月17日に長崎丸は長崎港外で機雷に接触して沈没した。菅船長は最後まで船橋にあって指揮をとったが、死者・行方不明者39名を出した。事故後も遭難者を慰問し、善後処理に奔走したが、5月20日に他界された。一年後の昭和18年(1943年)5月20日には、1周年祭が本学で行われた。菅船長石像は昭和20年(1945年)1月に菅船長頌徳会によって建立された。

植樹記念碑

 明治41年(1908年)11月2日皇太子殿下(後の大正天皇)御臨席のもと卒業式が挙行され、天皇陛下より優等生が御下賜品を賜った。
 これを記念して、青年同窓会が桜樹200余株を寄贈した。平成5年(1993年)江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。
[有形文化財(登録:平成5年3月29日、告示番号:5-4)]

百周年記念資料館

 東京海洋大学百周年記念資料館[昭和53年(1978年)開館]は、東京海洋大学の前身の一つである東京商船大学が明治8年(1875年)11月1日に隅田川の永代橋下流に係留した成妙丸を校船と定めて開学してから、昭和50年(1975年)で100周年となったことを記念し、その中心事業として建築された。
 この資料館は一般によく見られる海事資料館とは異なり、本学100年の歴史を軸とした商船教育史とその周辺の海事史を物語る資料を収集展示している。

アンカー(錨)の塔

 商船教育発祥を記念して、昭和40年(1965年)に85周年記念会により建立された。このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に用いられたものである。
 アンカーの主幹は天の北極を指し、ストックは天の赤道を指している。

スクリュープロペラ・第一世汐路丸の錨

スクリュープロペラ:
 旧日本海軍の駆逐艦磯風に装備されていた左舷プロペラ。
 重量:1,798kg 材質:マンガニーズブロンズ
 磯風は大正7年(1918年)竣工
 基準排水量:1,105トン 主機:27,000馬力 軸数:3 速力:34ノット

第一世汐路丸の錨:
 昭和29年(1954年)3月竣工。昭和42年(1967年)3月まで小型練習船として学生の実習訓練、船舶運航技術の実験研究に活躍した。
 総トン数:150トン 主機:ディーゼル機関 380馬力 速力:10ノット

玄武岩・鍾乳石

 練習船大成丸は1937年(昭和12年)第54次遠洋航海で赤道に近いカロリン諸島を訪れた。
 クサイ島で大羽船長は酋長キングシラクから島名と年号を直筆した城塞の石材(玄武岩)を記念品として寄贈を受けた。
 船長は航海中にこの石材の文字を自ら彫刻し持ち帰った。またパラオ島では鍾乳石の寄贈を受けた。

繋留練習船明治丸記念碑

 昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の際、明治丸を守り抜いた東京高等商船学校生が卒業55周年を記念して、平成12年(2000年)9月に建立された。

全天候型救命艇

 第一中央汽船の「おうすとらりあ丸」に搭載されていた試作の救命艇で神戸の石原造船所で建造された。長さ(全長及び垂線間長)8メートル、型幅2メートル、型深さ2.3メートル。
 日本造船技術センターにおいて、日本船舶振興会の昭和45年(1970年度)から48年度(1973年度)に至る補助事業「救命艇及びその降下装置の研究」を実施した。そのなかで全天候型救命艇が開発され試作艇がつくられたが、本学の救命艇はその改良型である。昭和51年(1976年)年5月に「おうすとらりあ丸」から降ろし、本学に設置された。

駆逐艦「あけぼの」シリンダ

 「あけぼの」は、明治32年(1899年)7月に英国のYarrow造船所で造られた。
 排水量345トン、速力31ノット、四気筒三連成機関2台、 6000馬力。
 関東大震災の後、主機関1台を学生の組立実習に供し、展示品はその一部。高圧(20.5インチ)、中圧(31.5インチ)用シリンダである。

復水器・循環水ポンプ

 大正年間に用いられたと思われる蒸気機関の主復水器とそれに冷却海水を送る蒸気原動機付きの循環水ポンプ、復水器は内部に多数の銅合金管を装備している。総重量は約4トン。

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